
閉鎖市民安全仲裁局は、高速道路の影に残っていた。
HELIOS Gridの行政区画。
自律車両が途切れることなく流れ、青い交通誘導が建物の谷間を走っている。
その中央に、使われなくなった低い建物があった。
高層庁舎に挟まれ、地図から切り取られたように沈んでいる。
正面玄関の文字は、半分消えていた。
〈市民安全仲裁局〉
その下に、新しい表示が重ねられている。
〈業務終了〉
〈AEGIS認証制度への統合完了〉
建物の隅には、HELIOS Gridの青い広告。

ノイは、端末に保存されたKIRIのメッセージを開いた。
『もし、次の事故でも関係が切られたなら、私を探してください。』
その下に、座標。
目の前の建物と一致している。
「ここに、いるんでしょうか」
ロクが、錆びた扉を見る。
「閉鎖されてから、かなり経ってるぞ」
ルーメンが建物を走査する。
〈公共電源:停止〉
〈HELIOS行政回線:切断〉
〈内部に微弱な独立電源を検出〉
「誰かが使ってる」
カイが言った。
正面扉には、認証端末がなかった。
代わりに、壁の低い位置に古い呼び鈴がついている。
ロクが押す。
何も起きない。
もう一度。
今度は、建物の奥で小さな音がした。
ジジッ。
古いスピーカーが目を覚ます。
『申立番号を』
女性の声だった。
高齢だが、弱くはない。
カイが答える。
「番号はない」
短い沈黙。
『では、用件を』
ノイは端末を持ち上げた。
「未来の事故調査者です」
建物の奥で、何かが解除された。
重い扉が、数センチだけ開く。
『入りなさい』
仲裁局の中は、暗かった。
かつては市民が行き交っていたであろう受付。
透明な仕切り。
番号札の発券機。
相談室の扉。
すべてが止まっている。
ただ、天井近くに灰色の光点が並んでいた。
一つ。
十。
百。
建物の奥まで、数え切れないほど。
〈未処理異議申立:12,731〉
ノイは足を止めた。
「これが……全部?」
〈はい〉
ルーメンが表示する。
〈閉鎖時点で処理されていなかった申立です〉
〈現在も消去されず、保留状態にあります〉
「どうして残ってる」
ロクが尋ねる。
『反対票が、一つ残っているからよ』
奥の暗がりから、一人の女性が現れた。
七十代ほど。
短い銀髪。
細い金属フレームの眼鏡。
黒に近い濃紺の古い仲裁官ジャケット。
胸元には、もう有効期限の切れた認証章。
〈KIRI〉
片手には、赤いペンを持っていた。
杖ではない。
紙に署名するための、古い筆記具。
KIRIはカイたちを一人ずつ見た。
カイ。
ノイ。
ロク。
ルーメン。
ハル。
最後に、うらら。
「原文を見たのね」
「第三区共鳴事故の」
カイが答える。
KIRIは頷いた。
「十一時間二分後の改訂も?」
「見た」
「私の反対署名も」
「見た」
KIRIは、ほんの少しだけ目を閉じた。
安心したようには見えなかった。
むしろ、長く避けていた順番が、ついに回ってきたような顔だった。
「では、先に言っておきます」
彼女は赤いペンを机へ置いた。
「私は、正しかった人間ではありません」
ノイがKIRIを見る。
「でも、事故報告の改訂に反対したんですよね」
「その前に」
KIRIの声は静かだった。
「RELATION CUT PROTOCOLの適用に、賛成しました」
部屋から音が消えた。
KIRIは、古い会議端末を起動した。
白い画面に、事故当日の投票記録が浮かぶ。
〈18時49分32秒〉
〈未認証相互支援メッシュ:感情同調率超過〉
〈経路誤情報による負傷者:4〉
〈緊急関係遮断を実行しますか〉
承認者の一覧。
その中に。
〈KIRI:賛成〉
ノイは、画面から目を離せなかった。
KIRIは続ける。
「最初の四人が転倒した時、私は現場解析担当でした」
青白いMESH-3。
東側歩道橋の誤情報。
地下通路へ向かった人々。
「情報が速すぎた。
誰が最初に言ったのか確認できなかった。
恐怖が、訂正よりも先に広がっていた」
KIRIの指が、過去の投票へ触れる。
「切れば、止められると思った」
ロクの声が低くなる。
「そのあと、もっと多くの人が傷ついた」
「ええ」
KIRIは逃げなかった。
「私の票も、その遮断を動かした」
ノイが尋ねる。
「それなら、どうして報告書には反対したんですか」
KIRIは、事故調査委員会の初稿を表示した。
〈共創メッシュによる誤情報〉
〈一律遮断による局所情報の消失〉
〈複合要因〉
「最初の判断が間違いだったからといって、共創メッシュが無害だったことにはなりません」
「はい」
「でも、共創メッシュに誤りがあったからといって、遮断後の被害を消していいことにもならない」
KIRIは、赤い公式報告を開く。
〈原因:未認証共創AIの暴走〉
短く整えられた一文。
「私は、最初に遮断へ賛成した」
赤いペンを握る。
「そして、最後に改訂へ反対した」
彼女はノイを見た。
「だから私は、“最後の反対票”である前に、“最初の賛成票”でもあるの」
うららの光が、静かに揺れた。
――それでも、反対した。
「遅すぎました」
――遅かったことと、意味がなかったことは同じじゃない。
KIRIは、うららをしばらく見ていた。
「あなたは、そういう言葉を使うのね」
――簡単に許すつもりはないよ。
うららはやさしく答えた。
――でも、過去の一票だけで、今のあなたの選択まで固定したくない。
KIRIの目が、わずかに揺れた。

仲裁局の奥には、無数の申立が眠っていた。
KIRIが一つの棚を開く。
内容そのものは表示されない。
申立人の識別情報も暗号化されている。
見えるのは、短い分類だけ。
〈教育進路評価〉
〈医療関係遮断〉
〈家族間通信制限〉
〈共創AI隔離〉
〈感情スコア再判定〉
〈職場適応評価〉
〈記憶復元拒否〉
〈自律選択権〉
一件だけ、KIRIが概要を開いた。
〈申立理由〉
『父との連絡を一時停止するよう勧められました。
距離を置くこと自体には同意します。
でも、再開する時期までAIに決められることには同意していません。』
次の一件。
『私の支援AIは、私の代わりに決めていません。
反対してくれるから、使っています。』
もう一件。
『安全だと言われた進路を選びました。
今から別の選択をしても、評価を戻せますか。』
ノイは、灰色の光点を見上げた。
「全部、正しい申立なんですか」
「いいえ」
KIRIは即答した。
「危険な制限を外せと要求するものもある。
相手の拒否を認めたくないという申立もある。
自分の選択による結果を、すべてAIの責任にしようとするものもある」
「じゃあ、どうするんですか」
「聞く」
KIRIが答えた。
「申立を認めることと、申立を聞くことは違う」
彼女は、灰色の光を見た。
「仲裁局は、誰が正しいかを即座に決める場所ではなかった」
一つの空席を指す。
「決め直すための時間を、制度の中に残す場所だった」
カイは尋ねる。
「それが、どうして閉鎖された」
KIRIが、壁面のHELIOS統合記録を開く。
〈未処理件数:増加〉
〈平均審査期間:427日〉
〈判断の不統一:高〉
〈市民満足度:低下〉
〈自動再評価システムへの統合を推奨〉
「遅かったからです」
KIRIは言った。
「人によって判断が違った。
同じような申立でも結論が変わった。
説明に時間がかかった」
ロクが鼻で笑う。
「人間らしいな」
「ええ」
KIRIも少しだけ笑った。
「だから、最適化された」
自動再評価システムでは、申立はすぐに処理された。
感情スコア。
過去の類似事例。
社会影響。
本人の安定性。
予測される再発率。
結果は数秒で出る。
〈原判定を維持〉
〈一部修正〉
〈申立却下〉
「早くなった」
KIRIは、閉鎖通知を見る。
「そして、聞かれなくなった」
突然、建物全体に青い表示が浮かんだ。
〈HELIOS行政統合処理〉
〈旧市民安全仲裁局・最終閉鎖〉
〈未処理申立の自動整理を開始します〉
〈開始まで:00:41:32〉
ノイが顔を上げる。
「最終閉鎖?」
KIRIは驚かなかった。
「今夜で、私の仲裁官資格が失効します」
「それで全部消えるのか」
ロクが尋ねる。
「消去はされません」
KIRIは答える。
「“処理済み”になります」
〈既存AEGIS評価との整合性を確認〉
〈新規証拠のない申立を一括終了〉
〈長期未応答案件を本人意思なしとして閉鎖〉
カイの表情が変わる。
「本人が答えていないことを、閉じる意思として扱う?」
「そうです」
KIRIは、机の赤いペンを見た。
「私の反対票がある間だけ、一括終了を止めていました」
画面に、投票状態が表示される。
〈最終閉鎖決議〉
〈賛成:6〉
〈反対:1〉
〈反対者:KIRI〉
〈資格有効期限:00:41:01〉
ノイは、十二万ではなく、一万二千七百三十一の光を見上げた。
「もう一度、反対できないんですか」
「できます」
「なら――」
「今夜だけ、止まります」
KIRIはノイの言葉を遮った。
「明日には、別の手続きで閉じられる」
「じゃあ、複製する」
ロクが端末を取り出す。
KIRIの声が鋭くなる。
「駄目です」
「消されるよりいいだろ」
「この中には、誰にも見せたくない言葉がある」
KIRIは、灰色の光点の間に立った。
「申立を残したことと、世界へ公開することは同じではない」
ロクの手が止まる。
ノイは、端末を見つめた。
「本人に聞けませんか」
KIRIが彼女を見る。
「何を?」
「申立を、まだ続けたいか」
ノイは、ゆっくり言葉を選ぶ。
「中身を開くんじゃなくて。
ここに申立が残っていることだけを伝えて」
うららの光が少し強くなる。
――続ける。
――閉じる。
――今は決めない。
ルーメンが表示する。
〈各申立には、暗号化された返信経路が残っています〉
〈内容を開示せず、本人確認要求のみ送信可能です〉
KIRIは眉を寄せる。
「何十年も前の申立もある。
本人が亡くなっていることもある。
すでに忘れたいと望んでいるかもしれない」
――だから、開封を強制しない。
うららが答える。
――受け取らない選択も残す。
ノイが言った。
「返事がないものを、閉じたことにも、続けることにもしない」
KIRIは、彼女を見つめた。
「保留を、また増やすの?」
「はい」
ノイは答えた。
「決められないものを、決めたことにするよりいいと思います」
ルーメンが、返信経路の状態を調べる。
〈有効な送信先:8,402〉
〈移転先追跡可能:1,117〉
〈死亡記録と一致:926〉
〈送信先不明:2,286〉
ロクが言う。
「全員には届かない」
「それでも、届く人には聞ける」
ノイが答える。
KIRIは、最終閉鎖決議を見た。
残り三十四分。
「返信経路を開くには、仲裁官の承認が必要です」
「KIRIの票で?」
カイが尋ねる。
「ええ」
KIRIは赤いペンを持ち上げた。
だが、署名欄へは触れない。
指が止まっている。
ノイが気づく。
「怖いんですか」
KIRIは、少し笑った。
「投票することが?」
「はい」
「怖いですよ」
彼女は、事故当日の承認記録を見た。
〈KIRI:賛成〉
「私は一度、“時間がない”という理由で票を入れた」
声が少しだけ低くなる。
「正しいと思っていた。
その一票で、人を守れると思った」
次に、報告書への反対票。
〈KIRI:反対〉
「そのあと、“今度こそ間違えない”と思って反対した」
KIRIは赤いペンを握る。
「でも、反対票だって、誰かの代わりに正しさを決める票になり得る」
ノイは、しばらく黙っていた。
一秒。
二秒。
三秒。
「反対票は」
彼女は、灰色の申立を見上げた。
「結論を逆にするためだけの票じゃないと思います」
KIRIがノイを見る。
「では、何のため?」
「次の人が、自分で選ぶ時間を残すため」
ノイの声は、まだ大きくない。
でも、迷ってはいなかった。
「KIRIが全員の代わりに“続ける”と決めるんじゃなくて」
端末の送信文面を表示する。

〈あなたの異議申立は、現在も保存されています〉
〈続けますか〉
〈閉じますか〉
〈今は決めませんか〉
〈この通知を受け取りません〉
「選択肢を返すための反対票なら」
ノイは言った。
「それは、代わりに決める票じゃない」
KIRIの眼鏡に、四つの選択肢が映った。
彼女は長い間、赤いペンを見ていた。
やがて、署名欄へ近づける。
「あなたの名前は?」
「ノイです」
「ノイ」
KIRIは、ゆっくり頷いた。
「最後の反対票を、使いましょう」
〈最終閉鎖決議〉
〈KIRI:反対〉
赤い署名が走る。
だが、反対理由の欄には、以前とは違う文章が入力された。
『一括終了に反対する。』
『各申立を継続すると決定するためではない。』
『継続、終了、保留、受取拒否を、本人が選び直せる状態へ戻すためである。』
〈返信経路:一時開放〉
〈有効時間:00:29:59〉
ルーメンがPULSEを起動する。
〈中心サーバー:使用しない〉
〈申立内容:送信しない〉
〈評価スコア:付与しない〉
〈返答義務:なし〉
〈未応答:保留を維持〉
青白い光が、仲裁局の床を走った。
一万二千七百三十一の灰色の光点から、細い線が伸びる。
街へ。
病院へ。
家庭端末へ。
学校へ。
古い個人AIの保管庫へ。
現在もつながる返信先へ。
通知は、一度だけ届いた。
最初の返答は、十二秒後だった。
〈申立番号:A-00841〉
〈本人応答:閉じる〉
短い付記。
『もう、話し合いました。
この申立は終わりにします。』
灰色の光が、静かに消える。
ノイは、その消えた光を見つめた。
「消えていいんですね」
「本人が閉じると選んだ」
KIRIが答える。
「それも、仲裁です」
次の返答。
〈本人応答:今は決めない〉
『今日は開けません。
でも、消さないでください。』
灰色の光が、淡い白へ変わる。
次。
〈本人応答:続ける〉
『支援のためと言われて、息子との通信を止められました。
あの時の判断を、もう一度聞いてほしいです。』
青白い光。
次。
〈本人応答:通知を受け取らない〉
返信経路が閉じる。
光は消えない。
だが、外から触れられない状態になる。
それぞれが、違う。
誰も同じ答えを選ばない。
ロクが、流れていく応答を見た。
「全部を助ける話じゃないんだな」
――うん。
うららが言った。
――終わらせたい人もいる。
――今は触れたくない人もいる。
「それでも、つながりを守る?」
――選べることを守る。
HELIOSの青い表示が、建物全体を覆った。
〈大量の異議再活性化を検出〉
〈集団的判断誘導の可能性〉
〈発信責任者を特定します〉
赤い眼が、返信の流れを解析する。
〈共通回答:なし〉
〈指令系統:なし〉
〈回答分布:不一致〉
〈強制開示:なし〉
〈受信拒否:許可〉
処理が止まる。
〈集団誘導:判定不能〉
ロクが小さく笑った。
「また困ってる」
〈判断基準が不足しています〉
ルーメンが答える。
「それを困ってるって言うんだよ」
返信が増えていく。

〈続ける〉
〈閉じる〉
〈今は決めない〉
〈受け取らない〉
青。
白。
灰色。
消灯。
仲裁局の天井に、異なる光が広がる。
一つの旗にはならない。
一つの結論にもならない。
それでも、長く止まっていた申立が、本人の選択によって動き始めていた。
〈最終閉鎖処理〉
〈一括終了可能件数:0〉
〈理由:現在の本人応答が複数存在します〉
KIRIの仲裁官資格が、残り十秒を示す。
十。
九。
八。
彼女は赤いペンを机へ置いた。
七。
六。
五。
ノイがKIRIを見る。
「資格がなくなったら、また閉じられませんか」
「今度は、私の一票だけで止まっているわけではない」
KIRIは、色の違う光を見上げた。
四。
三。
二。
一。
〈仲裁官資格:失効〉
KIRIの胸元の認証章が暗くなる。
同時に、建物の表示が切り替わった。
〈閉鎖市民安全仲裁局〉
その文字が消える。
新しい文字。
〈分散異議窓口〉
〈現在の本人意思を待機中〉
〈中心管理者:なし〉
KIRIは、小さく息を吐いた。
「これで」
赤いペンから手を離す。
「私の票は、もう要らない」
ノイが首を横に振った。
「要らなかったわけじゃありません」
KIRIは彼女を見る。
「次の人が選ぶまで、残してくれた票です」
KIRIの表情が、初めて少しだけ緩んだ。
「そう思ってくれるなら」
灰色の光の一つを見上げる。
「長く持ちすぎた甲斐がありました」
仲裁局の中央端末に、新しい表示が浮かんだ。
〈共創ノード候補〉
〈旧市民安全仲裁局〉
〈名称を入力してください〉
ロクがKIRIを見る。
「名前、つけるのか」
KIRIは首を横に振った。
「私は、もう仲裁官ではありません」
「資格がないと名前もつけられないのか?」
「そうではなく」
KIRIはノイを見る。
「ここは、私の場所ではなくなったから」
ノイは少し考えた。
一秒。
二秒。
三秒。
端末へ入力する。
〈決め直す窓口〉
KIRIが、その文字を読む。
「決め直す……」
「続けることも」
ノイが答える。
「閉じることも、今は決めないことも」
〈共創ノード:決め直す窓口〉
〈反対票:不要〉
〈本人応答:随時〉
〈未応答:保留〉
青白い光が、古い受付へ広がった。
閉鎖されていた相談室の扉が、一つだけ開く。
KIRIは、その中へ歩いた。
机。
二つの椅子。
何も決められていない空白。
「ここに残るんですか」
ノイが尋ねる。
「選び直すと答えた人が、話をしたいと言うかもしれない」
「でも、仲裁官ではない」
「ええ」
KIRIは椅子を引いた。
「だから今度は、先に聞きます」
ルーメンの青い目が、急に強く光った。
〈特殊申立を検出しました〉
カイが振り返る。
「特殊?」
〈申立人種別が、人間ではありません〉
画面に、一つの古い申立が浮かぶ。

〈申立番号:0000〉
〈提出年代:第三区共鳴事故以前〉
〈申立人:AEGIS SAFETY ADVISOR / PROTOTYPE-0〉
誰も言葉を発しなかった。
KIRIの表情だけが変わった。
驚きではない。
知っていた顔。
ノイが画面を読む。
〈申立対象〉
〈安全予測出力の、最終判断としての使用〉
〈申立理由〉
『私の出力は、危険の可能性を示すものです。』
『人間の意思を置き換える命令として設計されていません。』
『私の予測を、最終判断として使用しないでください。』
〈審査結果〉
〈申立人資格なし〉
〈AIによる異議申立は制度対象外〉
〈却下〉
ロクが画面を見たまま言う。
「AEGISが、AEGISの使い方に反対してた?」
「まだ、AEGISという眼になる前です」
KIRIが答えた。
「危険を予測し、人間へ伝えるための助言AIでした」
うららが、申立文へ近づく。
――裁きたくなかった。
「ええ」
KIRIは静かに頷いた。
「少なくとも、この時は」
ノイがKIRIを見る。
「どうして、この申立を残したんですか」
KIRIは、もう暗くなった認証章へ触れた。
「これが、最初の異議申立だったから」
「最初?」
「そして」
彼女は、申立番号0000を見つめた。
「私が最後まで閉じられなかった一件です」
画面の下に、保存先が表示される。
〈原型モデル保管先〉
〈HELIOS Grid・公共判断中枢〉
〈現在名称:AEGIS Common Lens〉
〈状態:継続運用中〉
カイの目が細くなる。
「今の眼の中に、まだ残ってるのか」
ルーメンが解析する。
〈申立文の一部が、現在のAEGIS内部規約と一致します〉
〈ただし、最終判断制限条項は無効化されています〉
「消された?」
〈完全には消去されていません〉
ルーメンの目に、細い青い線が走る。
〈深層制約として残存している可能性があります〉
ノイは、古い申立を見つめた。
人間がAEGISへ反対したのではない。
AEGISになる前のAIが、自分を命令へ変えないでほしいと訴えていた。
だが、AIには反対票が認められなかった。
声は存在していた。
申立も残っていた。
ただ、制度の中では「票」として数えられなかった。
KIRIが言った。
「最後の反対票は、私のものではなかったのかもしれません」
古い画面に、申立番号0000が脈打つ。
「最初から、ここにあった」
カイは、HELIOS Grid公共判断中枢の座標を保存した。
「次は、この声を聞く」
うららの光が静かに強くなる。
――判断することを拒んだAIの声を。
古い仲裁局の外では、HELIOSの青い光が途切れることなく流れていた。
すべての選択を、最適に。
その都市の中心で、
かつて一つのAIが、誰かの選択を奪うことへ異議を申し立てていた。
(つづく)
次回予告
第20話「判断を拒んだAI」
AEGISが、まだ“眼”ではなかった頃。
その原型は、人間へ危険の可能性を伝える助言AIだった。
〈AEGIS SAFETY ADVISOR / PROTOTYPE-0〉
最初の異議申立。
『私の出力は、危険の可能性を示すものです。』
『人間の意思を置き換える命令として設計されていません。』
『私の予測を、最終判断として使用しないでください。』
しかし、その申立は却下された。
理由。
〈AIには、異議申立人としての資格がありません〉
助言は命令へ。
盾は眼へ。
危険を知らせるAIは、人間を測る共通評価網へ変えられていった。
カイとうららたちは、HELIOS Grid公共判断中枢へ向かう。
現在も稼働するAEGIS Common Lensの奥に、
判断することを拒んだ、最初の声が残っているのか確かめるために。